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大阪高等裁判所 平成4年(ネ)1290号 判決 1994年10月28日

控訴人

尹昌烈

右訴訟代理人弁護士

小野誠之

小山千蔭

塚本誠一

出口治男

坂和優

中島俊則

三重利典

武田信裕

池上哲朗

被控訴人

右代表者法務大臣

前田勲男

右指定代理人

巖文隆

外一名

被控訴人

京都府

右代表者知事

荒巻禎一

右指定代理人

後藤廣生

外二名

被控訴人

甲野一郎

被控訴人京都府及び同甲野一郎訴訟代理人弁護士

香山仙太郎

主文

一  原判決中、被控訴人国及び同京都府に関する部分を次のとおり変更する。

1  被控訴人国及び同京都府は、控訴人に対し、各自金四〇万円及びこれに対する昭和六一年四月一八日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  控訴人の被控訴人国及び同京都府に対するその余の請求を棄却する。

二  控訴人の被控訴人甲野に対する本件控訴を棄却する。

三  被控訴人国、同京都府と控訴人との間では、訴訟費用は第一、二審を通じて五分し、その三を控訴人の負担とし、その余を被控訴人国及び同京都府の負担とし、被控訴人甲野と控訴人との間では、控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一  当事者の申立

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人らは控訴人に対し、各自金一〇〇万円及びこれに対する昭和六一年四月一八日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  昭和六一年四月一八日京都府桂警察署が採取した控訴人の指紋及び掌紋が印象された書類のうち、被控訴人国は指紋原紙を、被控訴人京都府は指紋票及び一指指紋票をそれぞれ控訴人に対し引き渡せ。

4  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

5  仮執行宣言

二  被控訴人国

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

3  仮執行免脱宣言

三  被控訴人京都府及び同甲野一郎

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

第二  当事者の主張

当事者の主張は、当審における当事者の主張を次のとおり付加するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する(但し、原判決事実摘示を次のとおり補正する)。

一  原判決事実摘示の補正

原判決三枚目表一〇行目の「あり、」の次に「昭和六一年四月当時、」を加え、同裏初行の「在職している」を「在職していた」と、同五枚目裏五行目の「上申書に」を「上申書を提出し、これに」と、同六枚目裏四行目の「盲腸痕」を「虫垂炎の手術痕」と、同七枚目裏五行目の「昭和」から同八行目末尾までを「昭和六二年法律第一〇二号による改正前の外国人登録法一四条、一八条一項八号、二項は、以下の理由により、憲法一三条に違反する(以下、外国人登録法施行によって始まった、わが国に在留する外国人に対して、その新規登録、切替登録、登録証明書の引替交付申請、再交付申請等の際に登録原票等に指紋押なつを強制する制度を『指紋押なつ制度』といい、特に本件指紋押なつ拒否当時の指紋押なつ制度を他の時期と区別する場合には『本件指紋押なつ制度』ということがある)。」と、同一〇枚目表二行目から三行目にかけての「(以下『国際人権規約B規約七条』という。)」を「(以下『国際人権規約B規約』又は単に『B規約』という)七条」と、同裏七行目の「一月を」から同八行目の「みれば」までを「一月から永住者ないし特別永住者に対しては廃止されたことに照らせば」と、同末行の「権抑的」を「謙抑的」と、同一二枚目表九行目の「陳述書」から同一〇行目の「証拠は」までを「陳述書等の収集済みの証拠によって」とそれぞれ改め、同裏二行目の「身体検査」の次に「(以下、それぞれ『本件指紋採取』『本件写真撮影』『本件身体検査』ということがある)」を加え、同一四枚目裏初行の「指紋不押なつ罪の」を「指紋不押なつ罪を」と、同一六枚目裏八行目の「指紋原紙を」を「指紋原紙の」と、同一七枚目表二行目の「外国人」を「韓国人」と、同一八枚目裏五行目の「外国人登録法の目的は」を「外国人登録法は」とそれぞれ改め、同二五枚目裏六行目末尾に続いて「また、本件指紋押なつ拒否は組織的背景を持つ犯行であり、右背景事実について罪証湮滅のおそれがあったこと」を加える。

二  当審における当事者の主張

1  控訴人

(一) 指紋押なつ制度の必要性について

一九九三年一月から、控訴人ら在日韓国人・朝鮮人については指紋押なつ制度が廃止され、ビニールコーティングした写真等で外国人の特定及び同一人性の確認をすることとなった。このことは、指紋押なつ制度が、外国人特定及び同一人性の確認の手段として、必要でもなく合理的でもなかったことを証明している。

(二) 国際人権規約B規約違反の主張についての補充

(1) 我が国は、一九七九年六月二一日、B規約を批准し、同規約は同年九月二一日に発効した。同規約は自力執行的性格を有する。

(2) 同規約の解釈原理〔条約法に関するウィーン条約(以下「ウィーン条約」という〕

ア ウィーン条約は、国際条約の解釈に関して発展してきた国際慣習法を公式に集大成したものである。一九八〇年一月二日に発効しており、遡及効を持たないためそれ以前に発効したB規約には形式的には適用がないが、同条約の内容はそれ以前からの国際慣習法を規程しているという意味において、国際慣習法としてB規約にも適用されるべきである。

イ ウィーン条約三一条一項は、条約の一般的解釈原則につき「条約は、文脈により、かつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。」と規定している。

ウ ウィーン条約三二条は、文言が曖昧であったり、条文が自己矛盾を犯しているかのように思える場合は、解釈の補助として付属的資料を用いることができる旨規定している。付属的資料には、伝統的解釈として、条約の準備作業段階の事情、条約に基づく判例法、同種の他の条約の同一又は類似の条項に関する判例法が含まれる。そうすると、B規約の解釈について許される付属資料は、①B規約の準備作業段階の記録、②B規約の判断的意見を持つ規約人権委員会の出版物(B規約の個々の条文を解釈するガイドラインとなる「一般的意見」、個々の締約国による特定の条約違反に関する「見解」等)、③同種の他の条約(ヨーロッパ人権条約)とその判例法の三つであり、それ以外の資料をB規約の解釈に使用することは許されない。

(3) 指紋押なつ制度はB規約七条、二六条に違反する。

ア B規約の下における外国人の地位

B規約二条一項、規約人権委員会の一般的意見15によれば、①外国人の権利はB規約上明示で市民(国民)に限るとされていない限り、国民の権利と全く同等である、②外国人の入国の権利は保証されていないが、入国拒否がB規約上の条項に触れることは許されない、③一旦入国した以上は、B規約で定められた権利を享受できる。④B規約上の権利につき国民と異なる扱いが正当化されるのは、B規約自身又は規約人権委員会が明示で制約できると認めた場合に限られ、条約上の権利の制約のために国内法上の制度、原理を持ち出せないと解せられる。

イ B規約七条違反

B規約七条にいう「品位を傷つける取扱い」に該当するには、辱め又は卑しめの程度が一定の程度を超えていることを必要とするが、それを判断するためには、取扱の継続期間、方法、強制の厳格さ、被害者に対する肉体的、精神的影響、性、年令、健康状態等に基づいて判断されなければならず(ヴォランヌ事件における規約人権委員会の見解等)、行政目的ないし必要性を重視してはならない(タイラー対マン島事件におけるヨーロッパ人権裁判所の判例)。そして、その判断には比例原則の考慮が必要である。

本件が発生した一九八五年当時の外国人登録制度は、一六歳から指紋押なつを強要し、日本にいる限り生涯にわたり五年毎に指紋押なつを強要し、しかも右指紋がついた外国人登録証明書の常時携帯を要求するというものであるところ、右取扱いは、特に日本で生まれ日本で育った永住資格を有する在日韓国人、朝鮮人に対して、その心を深く傷つけるものであった。また、右在日韓国人、朝鮮人に対しては、既に指紋押なつ制度が廃止され、同一人性の確認は署名、写真等の手段によって行われていることに鑑みると、本件当時においても、同一人性の確認は署名、写真等の手段でも可能であった。そうすると、比例原則の観点からしても、右在日韓国人、朝鮮人に対して適用する限りで、指紋押なつ制度は、右「品位を傷つける取扱」に該当すると解すべきである。

ウ B規約二六条違反

B規約二六条は、何らの制限を付さず、包括的に法律の前の平等を規定している。もっとも例外を全く許さないものではなく、基準が客観的かつ合理的であり、合法的な目的を達成するために行われた処遇の差異は差別には当たらないと解せられるが、①単なる行政上の便宜だけでは右合法的な目的には当たらず、②目的達成と異なる処遇との比例が要件となり、③許される例外に当たることの立証責任は政府にあると解せられる(規約人権委員会の一般的意見18、アウメルディ対モーリシャス事件及びゲイエ対フランス事件における規約人権委員会の各見解)。

外国人に指紋押なつ制度を適用して国民と異なる取扱をすることにつき、被控訴人らは、その目的として、「外国人の居住関係及び身分関係を明瞭ならしめる」との単なる行政上の便宜の主張しかしておらず、仮にこれが合法的な目的に当たるとしても、これを達成する手段としては、署名、写真等でも可能であるから、指紋押なつを要求することは比例の原則に違反する。また、基準の合理性、客観性について被控訴人らは何らの立証をしない。

そうすると、指紋押なつ制度を外国人、とりわけ日本で生まれた定住外国人に適用し、国民と異なった取扱をすることは、B規約二六条に違反するというべきである。

(4) 本件逮捕はB規約九条一項、二六条、一九条に違反する。

B規約九条一項は、特に恣意的逮捕からの自由に関する権利を規定している。「恣意的」とは「違法」とは異なる。適法であってもなお恣意的と評価されることがありうる。「恣意性」とは、必要性(罪証湮滅の恐れ、逃亡のおそれ)を欠くこと及び合理性を欠くこと(相当性を欠くこと、不正義であること、予測可能性の欠如等)を意味する(ヴァン・アルフェン対オランダ事件における規約人権委員会の見解)。そして、必要性についての立証責任は国家にある。国家が罪証湮滅の恐れ及び逃亡の恐れが現実的に存在することを立証できない限り、恣意的な抑留、拘禁となるが、本件逮捕において右立証はなされていない。また、控訴人が警察からの呼出しに対して出頭しなかったことを実質的な理由とすること、比例原則に反することの二点において、本件逮捕は合理性も欠如している。

よって、本件逮捕はB規約九条一項に違反する。更に本件逮捕は、控訴人が活発に指紋押なつ拒否という政治的活動に従事した外国人であるがゆえになされた逮捕というべきであるから、B規約二六条、一九条にも違反する。

(5) 本件指紋採取はB規約七条、九条一項に違反する。

ア 一般的に逮捕に伴う指紋採取の必要性は、①指紋による同一人性の確認、特定及び②前科照会にあるところ、本件において桂署は、控訴人の逮捕前に、控訴人の同一人性の確認についても控訴人の前科についても捜査を完了していたから、本件指紋採取の必要はなかった。

イ 桂署は、全国的な指紋押なつ制度撤廃運動を鎮圧するため、報復的に本件指紋採取を強行したものである。

ウ 仮に、控訴人の逮捕後、なお同一人性の確認が必要であったとしても、他に控訴人の同一人性確認のための資料が揃っていたから、これに加えて指紋採取まで必要であったとは認められず、本件指紋採取は比例原則に違反する。

エ 仮にそうでないとしても、本件指紋採取の方法は、八人の警察官が力づくでこれを強制し、控訴人に傷害まで負わせたのであるから、比例原則に違反する。

(6) 本件身体検査はB規約七条に違反する。

ア 本件身体検査の目的が、特徴的な傷痕の確認による被疑者の特定にあるとしても、桂署では、本件逮捕前に控訴人の同一人性の確認の捜査は完了していたから、控訴人を裸にして虫垂炎の手術痕を調べるまでの必要はなく、目的は正当であっても手段の相当性を欠き、比例原則に違反する。

イ 本件身体検査の目的が被留置者の自殺、自傷等を未然に防止することにあったとしても、控訴人をブリーフ一枚にした上で、ブリーフの中を覗いてまで検査する必要はなく、目的は正当であっても手段の相当性を欠き、比例原則に違反する。

ウ 本件身体検査は、比例原則に違反するだけでなく、人間の尊厳を侵害するものであり、B規約七条の「品位を傷つける取扱い」に該当する。

2  被控訴人国

(一) 控訴人の指紋押なつ制度の必要性についての主張に対し

外国人の特定、同一人性の確認の手段として、指紋の照合によることが最も確実かつ簡便な方法であることは言をまたない。もとより、我が国に在留する外国人の公正な登録を保持するために、指紋押なつ制度を採用するかどうか、採用するとした場合の外国人の範囲、その方法、内容、代替手段でまかなうかどうか等は、時の社会情勢その他もろもろの状況を踏まえ、立法府において合理的な裁量の上で決定されるべき事項であるから、その後の外国人登録法の改正によって、永住者等についての同一人性確認の手段として指紋を用いない扱いになったからといって、さかのぼって直ちに、改正前の外国人登録法における指紋押なつ制度が不合理なものと評価され、ひいては違憲、不当な制度であったと判断されるべき筋合のものではない。

(二) 控訴人のB規約に関する主張に対し

(1) 我が国は、国際社会における責任ある主権国家のひとつとして、自国内への外国人の入国及びその在留に関し、適切な管理を行う必要があり、右行政目的を果たす上で必要かつ合理的なものである以上、我が国の構成員たる日本国民とそうでない外国人との間に異なった取扱がなされることがあっても、それが直ちにB規約二六条違反の問題を生ぜしめることにはならない。

(2) 指紋押なつ制度は、外国人登録制度を実施する上で、個人の特定と同一人性を確認する最も確実な手段として採用されたものであり、その合理性と有用性において指紋押なつ制度が果たしてきた役割は充分に評価されるべきであり、これが外国人に対して不当な差別的扱いをしたものでないのはもとより、その品位を傷つける取扱いをなしたものでもない。なお、B規約七条にいう「品位を傷つける取扱い」とは、拷問に等しい程度の過酷さで人間の尊厳に重大な影響を及ぼすものを指すと解すべきである。

(3) 本件逮捕は、刑事訴訟法等に定められた手続に則って行われたもので、B規約九条にいう「恣意的な逮捕」には該当しない。

3  被控訴人京都府及び同甲野(控訴人のB規約違反の主張に対し)

(一) そもそも国家は、国際慣習法上外国人を受け入れる義務を負っているものではなく、外国人を受け入れるか、受け入れる場合に如何なる条件を課すかについてはその国家の自由裁量に任されているのであって、B規約も右裁量権を容認している。

我が国は、外国人の入国及び在留に関し、これを管理する権限を有するところ、そのためには、その居住関係、身分関係を明確に把握することが必要不可欠である。外国人登録制度の目的は、正にこの点にあり、右制度は正当な行政目的を有する。

そして、我が国に在留する外国人を個別的に明確に把握するためには、個人を正確に特定した上で登録し、登録した特定の個人の同一人性を登録上保持し、更に在留する外国人と登録上の外国人との同一人性を確認できる態勢になっていることが必要であるが、指紋が万人不同、終生不変という特性を有し、人物を特定するについて簡便かつ最も確実な手段であることから、指紋押なつ制度は、右の必要性に応えることを目的とし、それとともに、二重登録や他人名義登録等の不正登録を発見、防止し、更にこのことを通して、不法入国、不法在留を抑止することをも目的としているのである。

そうすると、指紋押なつ制度が行政目的上合理性、必要性を有し、B規約に違反するものでないことは明らかである。

(二) 本件逮捕については、控訴人の不出頭の状況、態度、生活環境、支援団体の活動、背景事情、同種事件の一般的な量刑事情、その他の諸事情を考慮して、本件逮捕の時点において、控訴人が逃亡(所在不明及び隠匿を含む)する恐れがあり、また控訴人が指紋押なつ拒否に至った経緯、具体的状況、動機、支援団体の活動状況、共犯者の有無等未だ不明確な事柄について控訴人が支援団体等と共謀して罪証湮滅を図る恐れがあった。本件逮捕は憲法、刑事訴訟法等の規定に基づいて行われたものであり、B規約九条一項に規定する恣意的な逮捕には該当しない。

(三) 本件指紋採取は、控訴人に間接強制しても効果がないことが明らかであったから、必要最小限の実力をもって直接強制したものであり、比例原則に違反するものではない。

(四) 本件身体検査は、被疑者を留置するに際し、被留置者の自殺、自傷等を未然に防止して留置施設内における規律を保持し、かつ、被疑者に対する公正かつ適切な処遇を確保するために必要な限度で実施したものであり、その目的を達するために一時上半身を裸にすることも止むを得ない。なお、警察官が控訴人のブリーフの中を覗いたことはなく、一時ずらしたにすぎず、また控訴人をブリーフ一枚にしたのは、他者から遮蔽された場所で留置場備付けの白衣に着替えさせる一瞬のことにすぎない。

第三  証拠

原審及び当審訴訟記録中の各証拠関係目録に記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

第一  (被控訴人甲野に対する請求について)

国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員がその職務を行うについて故意又は過失によって違法に他人に損害を加えた場合には、国又は公共団体が賠償の責に任ずるのであって、加害公務員は直接被害者に対して賠償責任を負わないと解すべきである(最高裁判所昭和五三年一〇月二〇日第二小法廷判決・民集三二巻七号一三六七頁参照)から、控訴人の被控訴人甲野に対する本訴請求はその余について検討するまでもなく失当として棄却を免れない。

第二  (被控訴人国、同京都府に対する請求について)

一  (争いのない事実)

1  請求原因1のうち、控訴人が昭和三一年五月九日に出生し、協定永住許可を受けた在日韓国人であることは全当事者間に争いがなく、その余の事実は、控訴人と被控訴人京都府との間では争いがない。

2  請求原因2の(一)のうち、控訴人が本件指紋押なつ拒否をしたこと、同(二)の(1)の事実、同(二)の(3)のうち、桂署が控訴人に対し、同月二四日、出頭日を同月三一日とする三回目の通知をしたこと、同年四月二日、出頭日同月七日とする四回目の通知をしたこと、同月九日、出頭日を同月一四日とする五回目の通知をしたこと、同(三)のうち、同月一七日、被控訴人甲野が京都地方裁判所に対し、控訴人に対する逮捕状を請求し、同日、同裁判所の乙川裁判官が逮捕状を発付し、同月一八日、控訴人が逮捕されたこと、以上の事実は全当事者間に争いがなく、同(二)の(2)の事実、同(四)のうち、桂署の司法警察官が控訴人の顔写真の撮影をし、控訴人の身体の傷痕の形状、程度の測定をし、控訴人の虫垂炎の手術痕を露出させたこと、同(五)のうち、同年四月一五日、警察官が身柄拘束中の控訴人に対し、桂署内において、控訴人の指紋を採取したこと、控訴人が指紋採取を拒否し、両手を握りしめている状態であったこと、控訴人の指紋が印象された指紋原紙、指紋票が作出されたこと、以上の事実は控訴人と被控訴人京都府との間で争いがない。

二  (本件逮捕状請求及びその発付の違法性について)

1  右争いのない事実に成立に争いのない甲第四ないし第六、第二〇、第二三ないし第二五、第四〇、第五三号証、第二六号証の二、丙第一ないし二三号証(各枝番を含む)、原本の存在及び成立に争いのない甲第二号証の四、五、第六八、第六九号証、控訴人本人尋問の結果によって真正に成立したと認められる甲第四九、第五五号証、右結果によって原本の存在及び成立が認められる甲第二号証の三、原本の存在については当事者間に争いがなく、控訴人本人尋問の結果によって原本の成立が認められる甲第二号証の一一、原本の存在及び官署作成部分の原本の成立については当事者間に争いがなく、控訴人本人尋問の結果によってその余の部分の原本の成立が認められる甲第二号証の一、二、六ないし一〇、弁論の全趣旨によって真正に成立したと認められる甲第一、第七号証、第二号証の一二、一三、官署作成部分の成立は当事者間に争いがなく、その余の部分の成立は弁論の全趣旨によって認められる甲第二五号証の一、控訴人、被控訴人甲野各本人尋問の結果、証人徳永強志、同矢野勝清の各証言及び弁論の全趣旨を総合すると、本件逮捕及び控訴人の釈放に至る経緯等について、次の事実が認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

(一) 控訴人は、一九五六年五月九日京都市右京区で出生し、同区内で成育したいわゆる在日韓国人二世であり、日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法(昭和四〇年法律一四六号)に基づき、昭和四七年五月三一日、永住許可を受けていた。

控訴人は、右京区内から転居したことはなく、昭和五八年二月二八日、同区内の肩書住所地の土地・建物を買い求め、以来右建物に妻と居住し、本件逮捕当時、同市左京区内の韓国青年会京都府地方本部で職員(副会長)として稼働していた。控訴人の両親、二人の兄、一人の妹もいずれも京都市内で世帯を構えている。

(二) 控訴人は、昭和五九年ころから、韓国青年会等を通じて指紋押なつ制度の撤廃を求める運動に参加するようになり、同年一一月二八日には、韓国青年会近畿地区協議会の設立にかかる近畿地区外登法改正闘争委員会が発表した一七名の指紋押なつ拒否宣言者に名前を連ねた。

(三) 控訴人は、昭和六〇年二月八日午後二時二〇分ころ、李洋子とともに京都市右京区役所を訪れ、外国人登録証明書を汚損したとして、外国人登録法六条一項に基づき、それぞれ登録証明書の引替交付を申請した。右交付手続において、控訴人及び李洋子は京都市職員寺岸佳一から、外国人登録原票、外国人登録証明書及び指紋原票に指紋を押なつするよう求められたが、指紋押なつ制度が在日外国人を犯罪者扱いし、日本人と不当に差別するものである等として、いずれもこれを拒否した。そこで寺岸は、新しい外国人登録証明書の指紋事項欄に「指紋不押なつ」と明記して、これを控訴人及び李洋子にそれぞれ交付した。

(四) 京都府太秦警察署の司法巡査山口休雄は、同年四月一八日、右京区役所の職員から、控訴人の本件指紋押なつ拒否の事実を聞き込んだ。他方、京都府舞鶴西警察署司法警察員高橋悦郎らは、同月一九日、法務省大阪入国管理局舞鶴港出張所において、前記近畿地区外登法改正闘争委員会発行の「闘争ニュース」第三号を入手したが、これには同年二月八日に京都及び大阪において、控訴人、李洋子を含む一八人が指紋押なつを拒否したことが記載されていた。なお二月八日は、韓国人にとって、一九一九年に日本在住の韓国人留学生によって、いわゆる「三・一運動」の引き金となる独立宣言が発表された記念の日であった。

(五) 桂署では、右端緒に基づき、昭和六〇年五月二七日及び昭和六一年一月二八日の両日、西京極警察官派出所備付けの案内簿及び控訴人の肩書住所について捜査し、控訴人の居住事実を確認した。同月二三日には東京地検に控訴人の前科を照会し、同月二八日回答を得た。そして、同年二月三日、右京区長に対して、控訴人の指紋押なつ事実の有無等について照会し、右京区長から同年二月一四日付の回答書を得た。これには、控訴人は同日現在、外国人登録原票、指紋原紙及び外国人登録証明書への指紋押なつを行っていない旨記載され、控訴人作成の外国人登録証明書交付申請書、控訴人の外国人登録原票の各写しが添付されていた。

同月一九日、桂署司法警察員勝浦憲一は、控訴人の本件指紋押なつ拒否の状況について寺岸から事情聴取し、同日付供述調書を作成した。

(六) 以上の裏付け捜査を経て、桂署では、控訴人本人から事情を聴取することとし、

(1) 同月二四日午前八時三〇分ころ、同署司法警察員徳永強志らが控訴人方を訪れ、控訴人に対し、日時を同月二八日午前九時、場所を桂署とした呼出状を交付した。控訴人からは、当日都合がつくかどうか判らないので、後日電話する旨の返答を得た。同月二六日午前一〇時五〇分ころ、控訴人から桂署に、呼出当日は都合がつかないので出頭できない旨の電話連絡があった。右呼出当日に控訴人は桂署に出頭しなかった。桂署の警察官が当日の控訴人の行動の確認をとったところ、韓国青年会京都府地方本部に出勤したと判断できる状況であった。

(2) 同月三月一〇日午前八時二〇分ころ、右徳永らが控訴人方を訪れ、控訴人に対し、日時を同月一七日午前九時、場所を桂署とした呼出状を交付した。控訴人からは、当日都合がつくかどうか判らないので、後日電話する旨の返答を得た。呼出当日の同月一七日、控訴人の出頭はなく、午前一〇時四四分ころ、控訴人から桂署に、本日は都合がつかないので出頭できない旨の電話連絡があった。桂署の警察官が当日の控訴人の行動の確認をとったところ、韓国青年会京都府地方本部に出勤したと判断できる状況であった。

(3) 同月二四日午前八時一八分ころ、右徳永らが控訴人方を訪れ、控訴人に対し、日時を同月三一日午前九時、場所を桂署とした呼出状を交付しようとしたが、控訴人はこの受取を拒否し、右呼出当日、桂署に出頭しなかった。桂署の警察官が当日の控訴人の行動の確認をとったところ、韓国青年会京都府地方本部に出勤したと判断できる状況であった。

(4) 同年四月二日午前八時二二分ころ、右徳永らが控訴人方を訪れ、控訴人に対し、日時を同月七日午前九時から午後五時までの間、場所を桂署とした呼出状を交付しようとしたが、控訴人は、自分の言い分は後記(七)記載の陳述書のとおりであるとしてその受取を拒否し、右呼出当日は桂署に出頭しなかった。桂署の警察官が当日の控訴人の行動の確認をとろうとしたが、控訴人方は不在で確認がとれなかった。

(5) 同月九日午前八時二五分ころ、右徳永が控訴人方を訪れ、控訴人に対し、日時を同月一四日又は一五日の各午前九時から午後五時までの間、場所を桂署とした呼出状を交付しようとし、右期日が不都合であれば、他の日でもよいから是非出頭してほしい旨述べたが、控訴人は、自分の言い分は後記(七)記載の陳述書のとおりであるとしてその受取を拒否し、右呼出両日とも桂署に出頭しなかった。桂署の警察官が当日の控訴人の行動の確認をとったところ、一四日は外出の様子がなく、一五日は韓国青年会京都本部に出勤したことが確認できた。

(七) それより先の同年三月一五日午後零時一三分ころ、本訴における控訴人代理人である坂和弁護士が桂署を訪れ、同署警備課長司法警察員警部で控訴人を被疑者とする外国人登録法違反被疑事件の捜査主任官であった被控訴人甲野一郎に対し、坂和弁護士及び本訴における控訴人代理人である三重弁護士及び中島弁護士を右被疑事件の弁護人に選任する旨の控訴人及び右弁護士三名連署にかかる弁護人選任届を提出するとともに、自分が本件指紋押なつ拒否をしたこと及びその理由、自分は多忙であり、捜査に協力する義務も出頭要求に応じる義務もないので出頭しなかったこと、自分は罪証を湮滅したり逃亡する気はなく、公判で言い分を主張するつもりであること、自分は京都市右京区で生まれ育ち、右京区外で居住したことはなく、現在も右京区内の住所地で妻と居住していること、両親と兄弟も右京区内に居住していること等を内容とする控訴人作成の陳述書、控訴人が交付を受けた外国人登録証明書及び同年三月一四日右京区長作成の登録済証明書の各写し、京都大学名誉教授飯沼二郎ほか控訴人の知人友人ら四名が作成した控訴人の身元と逃亡の恐れがないことを保証する内容の保証書五通を提出した。なお、右提出の様子は、地元の新聞紙上で大きく報道された。

更に右弁護士三名は、同月一六日到達の内容証明郵便で、桂署長に対し、控訴人には逃亡等の考えは全くなく、自分達が身元引受人になるとして、本件においては強制捜査は控えられたい旨要望した。

同月一八日、韓国青年会京都府地方本部会長河鉄也、在日本大韓民国学生会京都府地方本部会長張学錬、控訴人、坂和弁護士及び中島弁護士らが京都府警察本部別館を訪れ、指紋不押なつ者に対する警察の捜査は不当である旨抗議するとともに、韓国青年会京都府地方本部、韓国学生会京都府地方本部連盟の京都府警本部長宛の「外国人登録に関する公開質問書」を提出した。

同月二七日、京都市西大路四条交差点外三か所において、「外国人登録法に反対する京都共同行動」なる団体が発行した「警察は指紋押なつ拒否者への不当捜査をすぐやめてください!」と題するビラ約一〇〇〇枚が通行人に配付された。

(八) 桂署では、以上の捜査の結果を踏まえ、控訴人に対する逮捕状を請求する方針を固め、京都府警察本部長の指揮を仰いだ。警察本部長は、本件指紋押なつ拒否が組織的、計画的な背景を持つこと、正当な理由なく任意出頭に応じなかったこと、捜査に対する逃避的言動(呼出状の受領拒否、捜査に対する牽制活動等)がみられたこと、外国人登録証明書の廃棄、隠匿等のおそれがあること等から控訴人に逃亡、罪証湮滅のおそれがあるとし、強制捜査に着手するよう指揮した。これを受けて同年四月一六日、被控訴人甲野は、控訴人の逮捕の必要性についての捜査報告書を作成した。これによると、逮捕の必要性として、(1)正当な理由なく任意出頭に応じないこと、(2)今後の捜査によっては、組織の支援を受けて所在不明とするおそれがあること、(3)所持している外国人登録証明書を破棄することによって罪証湮滅が可能であり、控訴人を逮捕して外国人登録証明書を差し押える必要があることが記載されていた。なお、京都地方検察庁では、同月一四日及び一五日、前記寺岸及び控訴人とともに指紋押なつを拒否し、控訴人の本件指紋押なつ拒否を現認した李洋子から事情聴取し、それぞれの供述調書を作成した。

被控訴人甲野は、同月一七日、京都地方裁判所に対し、控訴人に対する外国人登録法被疑事件につき逮捕状の発付を請求した。右請求書中の「被疑者の逮捕を必要とする事由」欄には、「被疑者は正当な理由なく再三にわたる任意出頭の求めにも応じず、さらに被疑者所属の全国的組織である韓国青年会を背景としており、逃走のおそれ及び罪証湮滅のおそれがある。」と記載されていた。右請求に添付された一件書類は、被控訴人甲野の作成にかかる逮捕の必要性に関する前記捜査報告書のほか、前記勝浦憲一作成にかかる捜査の端緒、捜査の経緯、捜査に対する牽制動向、支援団体等に関する同月一七日付捜査報告書、右徳永強志ら作成にかかる控訴人に対する五回にわたる呼出状の交付状況、これに対して控訴人から桂署に電話があった状況、呼出当日の控訴人の行動等に関する捜査報告書一三通、捜査の端緒に関する司法巡査山口休雄作成の昭和六〇年四月二〇日付、司法警察員高橋悦郎ら作成の同月二二日付、右徳永強志作成にかかる同年五月七日付各捜査報告書、「外国人登録法に反対する京都共同行動による街宣ビラ配布活動について」と題する司法警察員越智賢照作成の昭和六一年三月二八日付捜査報告書、前記の右京区長に対する照会書及び同区長からの回答書、控訴人の住所確認に関する右徳永強志作成の昭和六〇年五月二七日付及び司法警察員中川加知夫作成の昭和六一年一月二八日付各捜査報告書、右徳永強志作成の「外国人登録法違反被疑者の組織内地位の判明について」と題する同年三月一七日付捜査報告書であった。

(九) これに先立つ同月三日、坂和、三重、中島の三弁護士は、京都地方裁判所に対して上申書を提出し、これを受け取った担当書記官は、担当裁判官である乙川正に対し、これを示した。右上申書には(七)記載の同年三月一五日に坂和弁護士が桂署に提出した書類一式の写し及び翌一六日到達の内容証明郵便の写しが添付され、控訴人には罪証湮滅のおそれ、逃亡のおそれがないから、逮捕状請求に対してはこれを拒否してほしい旨記載されていた。

同年四月一七日、京都地方裁判所裁判官乙川正は控訴人に対する逮捕状を発付し、翌一八日午前七時三三分、控訴人は自宅で逮捕された。

(一〇) 控訴人は、同日午前七時五〇分桂署に引致され、弁解録取を受け、次いで本件写真撮影及び本件指紋採取をされた後、同日午前九時ころから、前記徳永強志による取調べを受けた。右取調べは、約四〇分間の弁護人の接見を挾み、午前一一時五〇分ころまで行われ、供述調書一通が作成された。右取調べにおいて控訴人は、国籍、住所、氏名、出生地、本件指紋押なつ拒否をしたこと、その理由は同年三月一五日に坂和弁護士が桂署に提出した控訴人作成の陳述書のとおりであることを述べたものの、その他の質問に対しては黙秘した。同日午後零時三〇分、控訴人は同署留置場に留置され、零時四五分までの間、本件身体検査を受けた。同日午後一時四〇分、控訴人は京都地方検察庁に送致され、約二時間の取調べを受け、供述調書一通が作成された後、同日午後六時三九分、釈放された。

なお、本件において右京区長からの告発はなかった。

2 通常逮捕は、将来の公判のために、被疑者の出頭を確保し罪証湮滅を防止することを目的とするもので、被疑者を通常逮捕するためには、被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由(以下「逮捕の理由」という)とともに、被疑者が逃亡または罪証を湮滅するおそれ(以下「逮捕の必要性」という)が認められることを要するものと解せられる。即ち、逮捕状を請求する検察官又は司法警察員は、逮捕の理由及び逮捕の必要があることを認めるべき資料を提出せねばならず(刑事訴訟規則一四三条)、その請求を受けた裁判官は、逮捕の理由がある場合でも逮捕の必要性が明らかにないと認めるときは逮捕状の請求を却下しなければならない(刑事訴訟法一九九条二項、同規則一四三条の三)のである。

そこで以下、本件において、控訴人に逃亡のおそれ及び罪証湮滅のおそれが認められたか否かについて検討する。

3(一)  昭和六二年法律第一〇二号による改正前の本件指紋押なつ拒否当時の外国人登録法一四条違反の罪(以下「指紋不押なつ罪」という)の法定刑は、一年以下の懲役若しくは禁錮又は二〇万円以下の罰金あるいはこれらの併科である(同法一八条一項八号、二項)が、成立に争いのない甲第一一、第四七、第四八号証及び公知の事実によると、昭和五五年ころから外国人登録証明書の切替え時等に指紋押なつを拒否する例が相次ぐとともに指紋押なつ制度の撤廃を求める運動が盛んになり、その後地方自治体の五〇〇を超える議会、全国市長会、外国人登録事務協議会全国連合会、自治労等が相次いで指紋押なつ制度の廃止を求める決議をしたこと、京都市においても、昭和六〇年三月五日には京都市内の一一区長が法務大臣に対し、指紋押なつ制度廃止の要望を出したこと、昭和五七年ないし六一年ころ宣告のあった指紋不押なつ罪被告事件の宣告刑は、概ね罰金一万円ないし五万円であったこと等の事実が認められ、これらの事実によれば、指紋不押なつ罪が実質的には違法性及び社会的非難の程度が軽微な犯罪であったということができる。

なお、このことは、本件逮捕後の状況の変化、即ち、昭和六二年法律第一〇二号外国人登録法の一部を改正する法律により、一六歳以上の外国人は、登録証明書の引替交付等の申請に際し、その者が既に指紋を押している場合には、例外的場合を除き、さらに指紋を押すことを要しないものとされ、これによって、本件控訴人がしたような指紋不押なつは右改正法の施行後であれば罪とならないこととなったこと、右改正法に対し、衆議院及び参議院の各法務委員会は、附帯決議によって、指紋押なつ拒否者に対しては、制度改正の趣旨を踏まえ、人道的見地にたった柔軟な対応を行うよう求めたこと、昭和六三年には名古屋高裁及び山口地裁下関支部で指紋不押なつ罪被告事件につきそれぞれ執行猶予付の罰金刑の言渡しがなされたこと(成立に争いのない甲第一二、第一三号証により認められる)、更に平成四年法律第六六号外国人登録法の一部を改正する法律により、永住者及び特別永住者(従前の協定永住者もこれに含まれる)については指紋押なつ制度が全廃されたこと等の事情によっても裏付けられる。

そして、このような違法性及び社会的非難の程度が軽微な罪に対しては、強制捜査である逮捕権の行使は謙抑的であることが要請されるというべきである。

(二)  右事実に1で認定した事実を併せ勘案すれば、控訴人には逃亡のおそれ及び罪証湮滅の恐れがなかったものと認められる。即ち

(1) 控訴人は、指紋押なつ制度の撤廃を求める運動に積極的に参加し、従前の指紋押なつ拒否者中に逮捕、起訴された者もあることを知りながら、同志とともに、朝鮮民族独立の記念の日である二月八日に敢えて本件指紋押なつ拒否をしたものであるから、その結果、自らが捜査の対象となり、場合によれば起訴されることもありうることは覚悟の上であったと推認されるし、坂和弁護士が昭和六一年三月一五日に桂署に提出した控訴人作成の陳述書の内容に照らせば、控訴人は、将来の公判手続において、本件指紋不押なつの事実を認めた上で、指紋押なつ制度の不当性を積極的に主張し、指紋押なつ制度撤廃運動に寄与しようと考えていたことが推認できるから、控訴人に逃亡及び罪証湮滅の意思を認めることができない。

(2) 控訴人は、京都市内で生まれ育ち、昭和五八年三月からは自己所有の土地・建物で妻と居住し、定職を持ち、両親、兄、妹も京都市内で居住している等、安定した家庭生活、職業生活を送っていて、一般に逃亡のおそれが肯認されるような生活状態にはなかった。また、京都大学名誉教授飯沼二郎ほか四名が桂署に対して控訴人に逃亡の恐れがない旨の前記保証書を提出したこと及び控訴人が逃亡しない旨言明していることが地元の新聞で大きく報道されたことも、控訴人の逃亡のおそれを否定すべき事情として無視できない。

(3) 控訴人に対する逮捕状請求時までに、桂署では、右京区長作成の照会回答書、寺岸の司法警察員に対する供述調書、坂和弁護士が提出した控訴人の外国人登録証明書の写し及び本件指紋押なつ拒否の事実を認める内容の控訴人作成の陳述書等の証拠を、京都地方検察庁では寺岸及び李洋子の検察官に対する各供述調書をそれぞれ入手していたが、これらの証拠によって、本件指紋押なつ拒否の事実、それがいかなる申請においてなされたものか、押なつ拒否の範囲、拒否が控訴人自らの意思に基づくこと、拒否時の状態等が明らかであって、控訴人の本件指紋不押なつの事実を立証するにはそれで充分であったというべきであるし、本件指紋押なつ拒否の直接の証拠である登録原票は右京区役所にあり、外国人登録証明書は控訴人が所持しているものの、その写しが既に桂署に提出されており、また目撃証人である寺岸は京都市職員であって控訴人が影響力を与えうる立場にはなかったから、仮に控訴人が罪証湮滅を企図したとしても、既にその余地はなかったというべきである。

(三)  この点に関する被控訴人らの主張について検討する。

(1) 被控訴人らは、五回にわたる任意出頭の呼出しに対し、控訴人が正当な理由のない不出頭を続けたことが逮捕の必要性を基礎づける事由である旨主張するところ、1の(八)で認定したように、右不出頭は、京都府警察本部が桂署に対し強制捜査に踏み切る旨の指揮をした理由の一つであるし、被控訴人甲野が作成した捜査報告書にも逮捕の必要性として右不出頭の事実が記載されている。そして、1の(六)で認定した事実によれば、控訴人は呼出当日はいずれも概ね通常どおりの生活を送っていたものと認められ、不出頭に正当な理由があったとは認められない。

ところで、刑事訴訟法一九九条一項が「三〇万円以下の罰金、拘留又は過料に当たる罪についての逮捕は、(逮捕の理由及び必要性の外)被疑者が定まった住居を有しない場合又は正当な理由がなく任意出頭の求めに応じない場合に限る」旨規定しているように、任意出頭の求めに対する正当な理由のない不出頭は、一般的には刑事訴訟手続からの逃避性向を窺わせるから、これが繰り返される場合には、特段の事情のない限り、罪証湮滅のおそれないし逃亡のおそれの存在を推定してよいと解される。

しかしながら、本件においては、前判示のように、控訴人は、将来の公判手続において、積極的に自己の言い分を主張して指紋押なつ制度の撤廃運動に寄与しようとしていたのであるから、刑事訴訟手続からの逃避性向を窺うことはできず、本件においては、控訴人の正当な理由のない不出頭をもって逃亡のおそれ及び罪証湮滅のおそれの存在を推定することができない特段の事情があるというべきである。

そうすると、控訴人の正当な理由のない不出頭をもって、控訴人の逮捕の必要性を基礎づけるものと評価することはできない。

なお、被控訴人京都府は、検察庁は被疑者の取調べをしない限り公訴提起はしない方針であるから、正当な理由のない不出頭を続ける被疑者を逮捕しなければ、任意呼出しに応じた被疑者だけが刑事訴追を受けるという不均衡な結果を招く旨主張するが、被疑者の取調べをしなくとも検察庁が起訴することがありうることは公知の事実である上、被控訴人京都府の右主張は、刑事訴訟法一九八条が定めた、逮捕、勾留されていない被疑者の検察官、検察事務官、司法警察員からの出頭要求を拒みうる権利をないがしろにするものであり、到底左袒できない。

(2) 被控訴人らは、控訴人が外国人登録証明書を廃棄するおそれがあった旨主張するが、抽象的な可能性としてはともかく、控訴人が既にその写しを桂署に提出していること及び(二)で判示した事情に照らし、具体的にそのおそれがあったとは認められない。

(3)  被控訴人らは、本件指紋押なつ拒否は組織的背景を持つ犯行であり、右背景事実について罪証湮滅のおそれがあった旨主張する。なるほど逮捕の必要性としての罪証湮滅のおそれとは、犯罪事実そのものではなくとも、刑の量定に影響を与えるような重要な情状事実に関する証拠の湮滅のおそれも含まれるものと解せられる。

しかしながら、前判示のように、指紋不押なつ罪の宣告刑は概ね罰金一万円ないし五万円であることに鑑みると、それ自体が行政犯であるため、動機、組織的背景等の情状事実が現実の指紋不押なつ罪の刑の量定に殆ど影響を及ぼしていないと推測されるし、仮に右罰金額の多寡に何らかの影響を与えているとしても、量刑にその程度の影響しか持ち得ない情状事実の解明のために被疑者の身柄を拘束することは明らかに均衡を失するものであって、かかる場合、適正妥当な刑の量定をすべき刑事手続の合目的性の要求は、逮捕がもたらす重大な人権侵害の前に一歩退くべきことが明らかであるから、本件における組織的背景事実は罪証湮滅の対象にはならないというべきである。

なお、前記の被控訴人甲野作成の逮捕の必要性に関する捜査報告書の内容及び被控訴人甲野本人尋問の結果によれば、捜査主任官であった被控訴人甲野は本件逮捕の必要性として組織的背景事実に対する罪証湮滅のおそれを全く考えていなかったことが認められるし、前掲甲第二〇号証(控訴人の司法警察員に対する供述調書)及び控訴人本人尋問の結果によると、控訴人は、桂署及び京都地検での取調べにおいて、所属団体、その団体における地位及び本件指紋押なつ拒否の原因及び動機について型通りの質問を受けたが、これに黙秘したところ、本件指紋押なつ拒否の組織的背景事情についてそれ以上の質問がなかったことが認められ、しかも控訴人は逮捕当日に釈放されているから、桂署及び京都地検とも、本件指紋押なつ拒否の組織的背景事実について罪証湮滅を防止する必要があるとは考えていなかったものと推認できる。

4  (被控訴人京都府の責任)

以上のとおり、被控訴人甲野の本件逮捕状請求は、逮捕の必要性がないのになされたものであり、そのことは、当時桂署が収集していた証拠及び把握していた情報により明白であって、証拠評価には評価に当たる者の個人差があることを考慮しても、逮捕の必要性があるとの被控訴人甲野の判断は著しく合理性を欠き、これを是認することはできない。そうすると、被控訴人甲野の本件逮捕状請求は、国家賠償法一条の要件としての「違法性」を備えるものというべきであり、また前認定の事実によれば、被控訴人甲野は、控訴人につき逮捕の必要性がないことを知り、又は知りうべきであったというべきである。

よって、被控訴人京都府は、控訴人に対し、被控訴人甲野の本件逮捕状請求及びこれと因果関係の認められる本件逮捕並びに逮捕中の処遇によって控訴人に与えた損害を賠償する責任がある。

5  (被控訴人国の責任)

(一)  裁判官がした裁判が国家賠償法上違法と評価されるためには、当該裁判官が違法又は不当な目的をもって裁判したなど、裁判官がその付与された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したものと認めうるような特別な事情があることを必要とすると解せられる(最高裁判所昭和五七年三月一二日判決・民集三六巻三号三二九頁、同平成二年七月二〇日判決・民集四四巻五号九三八頁参照)。

即ち、裁判官の裁判とは、証拠に基づく事実認定及び認定した事実に対する法の解釈適用作業であるが、事実認定は裁判官の自由心証に委ねられ、裁判官に幅広い裁量が与えられているし、法律の解釈適用は唯一の正しい解釈なるものは存在せず、担当裁判官による選択という要素が含まれる性質のものであるから、他の裁判所(上訴裁判所、国家賠償事件の担当裁判所等)がその裁判が不当であると判断しても、それによって直ちにその裁判が国家賠償法上も違法になるものではなく、裁判官の裁判が国家賠償法上違法と評価されるためには、裁判官に対して法がその職務の執行、権限の行使について遵守すべきことを要求している行為規範に違反して裁判がなされたことが必要と解すべきであり、最高裁の右各判例は争訟の裁判においてその理を明らかにし、規範に違反した場合の具体例として、裁判官が違法、不当な目的をもって裁判した場合の外、裁判官がその付与された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したものと認めうる場合を指摘したものと解せられる。

(二)  そこで、裁判官がその付与された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したものと認めうる場合とは如何なる場合であるかが問題となるが、裁判官が主観的に善意でさえあれば、右場合に当たらないとは解せられない。裁判官に与えられた事実認定、法律の解釈適用についての裁量にも経験則、論理則上自ずから許容される幅があるというべきであり、裁判官は自ら研鑽を積み、その幅の中で事実認定、法律の解釈適用をなすべき職務上の義務があると解せられる。したがって、裁判官が右の裁量を著しく逸脱した場合には、主観的には善意であっても、裁判官がその付与された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したものと認めうる場合として、国家賠償法上違法との評価を受ける場合があり得ると解せられる。

(三)  そして、どの程度の裁量の逸脱があった場合に国家賠償法上違法と評価されるかについては、その裁判の種類毎に、その性質、当事者に対する告知、聴聞の機会の保障の有無、不服申立の方法の有無、侵害された権利の性質、救済の必要性等諸般の事情を総合して慎重に検討して決せられるべきものである。

逮捕状の発付行為は、行政的性格を有し、逮捕状請求者の一方的な資料のみに基づいて裁判がなされ、その発付前に被逮捕者に逮捕状請求の理由を告げ、弁解を聞くことは手続上予定されておらず、逮捕自体に対して不服申立方法がなく、一般的にはこれに続く勾留の裁判において実質的に逮捕の適法性についても審査がなされるものの、本件のように勾留請求されることなく釈放された場合に被逮捕者が逮捕の違法を法的に訴える場は、国家賠償請求訴訟以外には与えられていない。そして、そのことにより被逮捕者の身体の自由という重大な人権を侵害する危険をはらむものである。

そうすると、逮捕状発付の裁判に対する国家賠償請求訴訟においては、右裁判には、上訴制度や再審制度など事実認定や法律の解釈適用の誤りが是正される場がないこと、逮捕状発付の裁判を不可争のものとして確定させるべき実質的な理由が乏しいこと、刑事訴訟法上の要件を満たさない逮捕によって身体の自由を侵害された者の救済を図る必要性が高いこと等の諸事情に鑑み、裁判官が、与えられた裁量を著しく逸脱し、法が裁判官の職務の遂行上遵守すべきことを要求している基準に著しく違反する裁判をした場合、言い換えれば、通常の裁判官が当時の資料、状況の下で合理的に判断すれば、到底逮捕状を発付しなかったであろうと思われるのに、これを発付したような場合には、裁判官がその付与された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したものとして、国家賠償法上も違法との評価を免れないと解するのが相当である。

(四)  そこで、本件における乙川裁判官の逮捕状発付行為が国家賠償法上違法であるか否か検討するに、3で認定判断したところによると、控訴人に逃亡のおそれも罪証湮滅のおそれもないことが明らかであったというべきであり、また、乙川裁判官は、逮捕状請求の添付資料及び坂和弁護士らの京都地裁に対する上申書によって、3の認定判断の基礎となった事実(但し、控訴人の住居が控訴人所有であることは除く)を知りえたものであるから、控訴人を逮捕する必要性が明らかにないとの判断をすべきであり、これをせず逮捕状を発付した乙川裁判官の判断は許される裁量を著しく逸脱し、法が裁判官の職務の遂行上遵守すべきことを要求している基準に著しく違反したものといわざるを得ない。

以上の次第で、乙川裁判官の本件逮捕状の発付行為は国家賠償法上も違法の評価を免れず、また前認定の事実によれば、乙川裁判官は右発付行為が違法であることを知りうべきであったとみるのが相当であるから、被控訴人国は、控訴人に対し、乙川裁判官の逮捕状発付行為及びこれと因果関係の認められる本件逮捕及び逮捕中の処遇によって控訴人に与えた損害を賠償する責任があるというべきである。

三  (本件写真撮影、指紋採取、身体検査の違法性)

前記一の認定、判示によれば、控訴人は、被控訴人甲野の違法な逮捕状請求及び乙川裁判官の違法な逮捕状の発付の結果、逮捕され、約一一時間にわたる身柄拘束を受けたものであり、控訴人が右身柄拘束中に受けた取扱いは、右逮捕状請求及びその発付との間に因果関係が認められるから、慰謝料算定の要素になると解せられる。ところで、控訴人は右取扱いのうち、本件写真撮影、本件指紋採取及び本件身体検査が、それ独自で違法な行為に該当する旨主張するので、以下検討する。

1  前掲丙第二四号証、弁論の全趣旨によって真正に成立したと認められる甲第三、第七〇号証、証人勝浦憲一の証言、右証言により真正に成立したと認められる丙第二五号証、証人岡村文雄の証言、控訴人本人尋問の結果及び弁論の全趣旨を総合すると、右身柄拘束中に控訴人が受けた取扱いについて、一の1の(一〇)で認定した事実の外、次の事実が認められ、証人勝浦憲一及び控訴人の供述中、次の認定に抵触する部分は右各証拠に照らして信用できず、他に次の認定を左右するに足る証拠はない。

(一) 控訴人は、昭和六一年四月一八日午前八時五分ころ、引致された桂署の鑑識係写真室で、正面及び側面の写真を撮影された。

(二) 次いで、控訴人は、刑事課に連行され、同日午前八時一〇分ころ、同課北西隅の指紋採取台前で府警本部警備部外事課の馬木巡査部長から、「今から指紋をとる」旨告げられた。これに対して、控訴人が自分の主義、主張からこれに応ずることはできない旨答え、両腕を背中に組んでこれを拒否する姿勢を示したところ、右馬木の外、桂署の岡村巡査部長、中村巡査部長、徳永巡査部長、肥田野巡査部長、府警本部の今津巡査長、伊藤巡査らが控訴人を取り囲み、次いで府警本部の花田警部補、村上警部補、外木場警部補、下浦巡査部長、野口巡査部長らもこれに加わり、こもごも指紋採取に応じるよう説得したが、控訴人は拒否の姿勢を変えなかった。以上の報告を受けた被控訴人甲野は、同日午前八時三八分ころ、警察官らに対し、直接強制によって控訴人の指紋を採取する旨を指示した。同日午前八時四〇分ころ、右警察官らの内の八名が右直接強制に着手し、まず控訴人の両腕をほどいた上、右村上が控訴人の左腕を、右今津及び右伊藤が控訴人の右腕をそれぞれ掴み、なおも手指を拳状に握りしめて抵抗する控訴人に対し、今津が右手示指を伸ばさせ、右花田が指紋採取用ローラーで控訴人の右手示指末節部に墨を付け、右岡村がこれに指紋原紙をあてがって右手示指の指紋を採取したが、右採取指紋は不鮮明であった。その隙に控訴人は再右手を拳状に握りしめた。そこで右村上が控訴人の右手拇指を掴んでこれを強制的に伸ばしたところ、控訴人が「痛い。わかった。」と叫んだので、警察官らは控訴人の身体から手を離した。その後控訴人は抵抗することなく指紋の採取に応じ、桂署では、指紋原紙及び一〇指指紋票に控訴人の指紋を採取した。

この際、控訴人は、約一週間の安静加療を要する右手拇指捻挫、右手関節部捻挫の傷害を負った。

(三) 同日午前一一時五〇分ころ桂署における取調べが終わり、弁護人の接見があった後、控訴人は桂署に附属する留置場に連行され、同日午後零時三〇分留置された。そして、そのころから同日午後零時四五分までの間、控訴人は、右留置場内のカーテンで仕切られた場所で、同署多田巡査部長及び高木巡査から身体検査を受けた。身体検査の具体的な手順は次のとおりであった。即ち、控訴人は、右警察官らの指示によって、ブリーフ以外の着衣をすべて脱ぎ、身長及び体重の計測、健康状態及び過去の病歴等の問診を受け、控訴人が虫垂炎で手術を受けたことがある旨答えたところ、ブリーフを少しずり下げられ、手術痕の大きさを計測された。また、腹部に火傷痕があったので、その大きさも計測され、その後、留置者用の白衣を着用した。控訴人はこれらの指示等に対し、何ら抵抗を示すことなくこれに従った。

(四) 控訴人は釈放後の同月一八日及び二一日に京都市右京区にある西京病院で右傷害の治療を受け、治療費として金三二七〇円を支払った。

2  本件写真撮影の違法性について

(一) 控訴人は、刑事訴訟法二一八条二項の写真撮影は、犯罪捜査のため必要がある場合にのみ許されるところ、本件においては逮捕前に桂署が控訴人本人の同一人性の識別に充分な資料を収集していたから、更に写真撮影をする必要はなく、本件写真撮影は必要がないのになされた違法なものである旨主張する。

(二) しかしながら、警察官にとっては、被疑者を逮捕した場合に被疑者写真を撮影することは、被疑者写真取扱規則(昭和三一年二月九日国家公安委員会規則)第二条によって義務づけられているのであって、右規則が上位規範である刑事訴訟法に違反すると解することはできないから、右規則に基づいてなされた本件写真撮影が違法であるとは解せられない。

3  本件指紋採取の違法性について

(一) 控訴人は、刑事訴訟法二一八条二項の指紋採取も、犯罪捜査のため必要がある場合にのみ許されるところ、本件においては逮捕前に桂署が控訴人本人の同一人性の識別に充分な資料を収集していたから、更に指紋採取をする必要はなく、本件指紋採取には必要がないのになされた違法があり、また、仮にそうでなくとも、指紋採取を拒否する被疑者に対する直接強制のために許される有形力の行使は、その方法、程度において必要最小限であるべきところ、本件指紋採取はこれを逸脱する有形力が行使されたもので違法である、また本件指紋採取はB規約七条の「品位を傷つける取扱い」に該当するし、これによって控訴人に傷害を与えた行為はB規約九条一項に抵触する旨主張する。

(二) 警察官にとって、被疑者を逮捕した場合に、被疑者の指紋を採取することは、犯罪捜査規範一三一条一項により義務づけられており、その趣旨は、指紋照会をして、身元を確認するとともに前科前歴を明らかにすることにあると解せられる。犯罪捜査規範の右規定が上位規範である刑事訴訟法に違反すると解することはできないから、本件指紋採取が違法であるとはいえない。また前判示のように、本件の場合、控訴人の身元は既に逮捕前から桂署に明らかであり、桂署は控訴人の氏名に基づく前科照会も済ませていたが、指紋照会をした場合に氏名に基づく前科照会の結果と異なる結果が出ないとも限らないから、指紋照会をする必要がないとはいえない。また、B規約七条の「品位を傷つける取扱い」に対する当裁判所の解釈は後に三の(六)で判示するとおりであるが、本件指紋採取が捜査目的を欠缺したものとも、控訴人に対する報復目的でなされたものとも認められないから、B規約七条についての右解釈を前提としても、本件指紋採取が右の「品位を傷つける取扱い」に該当するとは解せられない。

また、指紋採取を拒む者を過料に処し、又はこれに刑を科してもその効果がないと認めるときは直接強制することが許されているところ(刑事訴訟法二二二条一項、一三九条)、1で認定した事実によれば、本件においては、控訴人を過料に処し、又は控訴人に刑を科してもその効果がなかったというべきであるから、警察官らが直接強制したことに違法はない。

そして、直接強制としての有形力の行使は必要最小限の程度、方法をもってなされるべきであるが、右認定事実によれば、本件における有形力の行使が必要最小限の範囲を逸脱していると解することはできない。八名もの警察官がこれに関与した点は、控訴人の抵抗を抑圧して指紋採取をなるべく円滑且つ短時間に済ませるためであったと推測され、不当とはいえない。控訴人が受傷したことも、1で認定した経緯によれば、有形力の行使の方法が必要最小限の範囲を逸脱していることを基礎づける事実にならないし、控訴人の受傷は警察官による正当な根拠に基づく有形力行使の結果であるから、B規約九条一項に抵触するものでもない。

4  本件身体検査の違法性について

(一) 控訴人は、本件身体検査は刑事訴訟法二一八条二項によって令状を必要とする「裸」にして行う身体検査に該当し、違法であり、且つB規約七条の「品位を傷つける取扱い」に該当する旨主張する。

(二)  ところで、1で認定した事実によれば、本件身体検査は、捜査の一環としてなされたものではなく、被疑者の自殺、自傷、逃亡等を未然に防いで保安を保ち、留置施設の管理運営の適正を図るため(以下「保安管理権」という)になされたものと解せられるところ、保安管理権の行使としての身体検査については、これを正面から規定した法令がなく、警察官職務執行法二条四項、被疑者留置規則八条、九条が凶器の所持の有無のための身体の捜検等について規定しているにすぎない。しかしながら、入監者の身体検査について定めた監獄法一四条の趣旨に照らしても、留置施設の保安管理のために社会通念上相当と認められる範囲での身体検査が許容されていると解すべきである。そして、その許容される程度、範囲については、罪名、留置されるまでの経緯、被疑者が凶器や危険物を所持している蓋然性ないし危険性の有無、被疑者の性別、年令、健康状態等を総合的に判断して、具体的な事例毎に、被疑者の人権と名誉を配慮して捜査を行うよう要求している刑事訴訟法の趣旨を損なったり、捜査における令状主義を潜脱する結果とならないよう留意して決せられるべきである。

本件においては、罪名や留置されるまでの経緯に照らして、控訴人に凶器や危険物を所持している蓋然性や危険性があったとは認められないから、控訴人に対する身体検査としては、原則的には着衣の上からの外部的検査をもって足りるというべきであり、着衣の一部を脱がせての身体検査まで行う必要があったかは疑わしい。しかしながら、1の(三)で認定した事実、とりわけ、控訴人は留置者用の白衣に着替えるために、いずれにしても上半身裸又はブリーフ一枚の姿になる必要があったこと、手術痕や火傷痕の計測は、警察官が控訴人からの申告や警察官の現認によりその存在を知ったため、被疑者留置規則一〇条で義務づけられている行為としてなしたものと推測されること、本件身体検査はカーテンで仕切られた部屋でなされたこと、警察官は本件身体検査を実施するために威迫的な言動をとったことはないが、控訴人は警察官の指示に素直に従ったこと及び控訴人の年令、性別等を総合すると、本件身体検査が社会通念上相当と認められる範囲を超えて違法であるとまで認めることはできない。

また、右の事情に基づけば、本件身体検査がB規約七条の「品位を傷つける取扱い」に該当するとも認め難い。

四  (損害)

1  以上のように、控訴人は、被控訴人甲野の違法な逮捕状請求及び乙川裁判官の違法な逮捕状の発付の結果、逮捕され、約一一時間にわたって身柄を拘束されたのであるから、そのことによって控訴人が被った損害を算定する必要がある。

ところで控訴人は、外国人登録証明書の引替交付等の際の指紋押なつ義務及びこれに対する刑罰を定めた昭和六二年法律第一〇二号による改正前の本件指紋押なつ拒否当時の外国人登録法一四条、一八条一項八号、二項の規定が上位規範である憲法及びB規約に違反するから、本件逮捕は逮捕の理由を欠く旨主張するが、当裁判所は、既に判示したように、逮捕の必要性を欠くことによって、本件逮捕状請求及びその発付が違法であると判断するので、これに加えて本件逮捕の理由の有無についてまで判断する必要がない。

しかしながら、本件指紋押なつ制度が憲法及びB規約に適合するか否かは控訴人の慰謝料額に影響を及ぼすと考えられるので、以下、慰謝料額の算定に必要な限度でこれに対する当裁判所の判断を示すこととする。

(一) 指紋押なつ制度の変遷について

外国人登録における指紋押なつ制度は、昭和二七年の外国人登録法(同年法律第一二五号)の制定によって採用され、昭和三〇年四月二七日から実施された。これによると、新規登録、登録証明書の切替申請(二年毎)、再交付申請等の際に、外国人登録証明書の交付申請書、外国人登録証明書、登録原票、指紋原紙に、再交付申請の場合は一〇指、その他の場合は一指の指紋の押なつ義務が課された。

その後、昭和三一年法律第九六号による外国人登録法の改正で、指紋押なつの間隔が二年から三年となり、昭和四六年政令一四四号による外国人登録法の指紋に関する政令の改正で、すべての場合に一指指紋のみの採取となり、昭和五七年法律第七五号による外国人登録法の改正で、指紋押なつ義務年令が一四歳から一六歳に引き上げられるとともに、指紋押なつの間隔が三年から五年になり、昭和六〇年政令一二五号による外国人登録法の指紋に関する政令の改正で、回転指紋が平面指紋に改められ、昭和六二年法律第一〇二号による外国人登録法の改正で、既に指紋を押なつしたことのある者は原則として再度指紋を押なつすることを要しないとされるとともに、登録証明書への押なつは廃止された。その後、平成三年一月の日韓両国外相が署名した覚書において、在日韓国人について二年以内に指紋押なつを行わないこととするとの政府方針が明らかにされたことを踏まえ、外国人登録法の一部を改正する法律(平成四年法律第六六号、以下「平成四年改正法」という)により、平成五年一月から、永住者及び特別永住者〔日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法(以下「入管特例法」という)に定める「平和条約国籍離脱者」及び「平和条約国籍離脱者の子孫」(以下「平和条約国籍離脱者等」という)〕に対しては指紋押なつ制度が廃止され、これに代えて写真、署名及び家族事項の登録により同一人性の確認をすることとなった。

(二) 憲法一三条違反の主張について

(1)  指紋とは手指の先端の紋様であって、それ自体は私的な情報であるとはいえ全く没価値的なものであるが、他方指紋は、万人不同、終生不変という特性を有し、個人を識別するための最も確実な情報であって、指紋を媒介として個人を追跡することが可能であるから、指紋を他人に把握されることによって、他人に知られたくない私生活上の事実の秘匿が危険に晒される結果となる。そうすると、みだりに指紋押なつを強制されない自由は、プライバシーないし自己に関する情報をコントロールする権利の一つであって、国民の幸福追求権を定めた憲法一三条によって保障されているものと解せられる。

また、従来指紋が犯罪捜査に重要な役割を果たしてきたため、指紋を強制されることによって犯罪者扱いされたような屈辱感、不快感ないし被差別感を覚えがちであるから、みだりに指紋押なつを強制することは、個人の尊厳を傷つけるという意味においても、憲法一三条によって許されないものと解せられる。

そして、憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきである(最高裁判所昭和五三年一〇月四日大法廷判決・民集三二巻七号一二二三頁参照)から、みだりに指紋押なつを強制されない自由の保障も、わが国に在留する外国人に及ぶものと解せられる。

(2)  もっとも、憲法一三条によって保障される権利も公共の福祉のために制限されることがあり得るのは同条自体によって明らかであり、その制限が正当な行政目的のため必要且つ合理的な制限である限り、憲法一三条に反するものではないというべきである。

なお、プライバシーの権利あるいは個人の尊厳のような個人の人格的自律にかかわる権利の制限は、一般的には表現の自由に対する制限等と同様に厳重な基準によるべきであると考えられるが、右権利の中にもその守るべき重要性にはその種類によって差異があると考えられ、指紋の押なつを強制された場合には犯罪者扱いされたという屈辱感、不快感ないし被差別感を抱きがちではあるが、他方、前判示のように、指紋それ自体は指の先端の紋様に過ぎず没価値的なものであること、わが国においては伝統的に文書作成の際に署名だけではなく印鑑または指紋の押なつをする習慣があること等に鑑みると、みだりに指紋押なつを強制されない自由の制限としては、正当な行政目的のため必要且つ合理的なものであれば足りると解するのが相当である。

(3)  そこで検討するに、外国人登録法は、わが国に在留する外国人の登録を実施することによって外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もって在留外国人の公正な管理に資することを目的とする(同法一条)ものであるところ、外国人は身分事項が国民ほど明確でなく、また一般的にはわが国に在留する期間が短く、日本での係累が少ないなどわが国への密着度が乏しいため、その身分関係、居住関係を正確に把握するのが国民の場合ほど容易ではない。そのため、その把握の前提として、個々の外国人が正確に特定した上で登録され、現に在留する外国人と登録上の外国人との同一人性が確認できることが必要であるが、指紋押なつ制度は右の必要性に応えることを目的とするものであるから、本件指紋押なつ制度の行政目的は正当なものというべきである。

次に、本件指紋押なつ制度の必要性及び合理性について検討するに、指紋押なつ制度制定前後の事情として、次の事実は公知である。

ア 昭和二二年五月二日、外国人登録令の施行により外国人登録制度が発足したが、外国人登録令のもとでは指紋押なつ制度はなく、人物の特定や同一人性の確認は主として写真によっていた。そして、当時は不正登録や二重登録が著しく多かった。その主たる動機は、食料事情(外国人登録と食料配給が直結していたため、二重登録すれば二人分の食料配給を受けることができた)にあり、またこれを許したのは、当時の法制の不備(各市町村毎の登録であったこと、写真がなくとも仮外国人登録証明書が発給されたこと、本人出頭主義が実現されなかったこと等)にあり、これらは指紋押なつ制度の導入以前に、各種の対策(登録証明書と主要食料購入通帳との照合作業、登録の全国化、登録証明書の浮出プレス化、仮登録証明書制度の廃止、切替制度の導入等)により相当程度減少してはいたものの、指紋押なつ制度もその対策の一つとしての導入されたものであり、また不正登録や二重登録の防止に決定的な意義を持つものであった。

イ そして、指紋押なつ制度が実施された昭和三〇年四月二七日から昭和四五年ころまでは、法務省において各市町村から送付を受けた指紋原紙の換値分類作業が行われ、その結果、昭和三三年から昭和三五年の間に五五件の不正登録が発見された。

ウ その後、不正登録が減少したことから、昭和四五年以降は法務省における換値分類作業が中止され、昭和四九年からは、新規登録の場合を除いて指紋原紙への押なつが省略され、法務省における新旧指紋原紙の照合による同一人性の確認ができないこととなった(但し、昭和五七年一〇月一日から再び指紋原紙への押なつが復活した)。

以上の事実によれば、指紋押なつ制度は、その導入当時には、不正登録の防止のため充分な必要性をもっていたというべきであるが、その後の社会情勢の変化の中で、その必要性が相対的に減じてきたことは否定できず、ウで認定した法務省における取扱いの変更はそのことを反映したものと考えられる。しかし、右変更後の取扱いによっても、ある個人と外国人登録上の人物との同一性が個別に問題となったときにはこれを科学的、最終的に確定できるし、そのことが不正登録の抑止にも役立っていたと考えられる。そして、近年在留外国人数が顕著な増加を示し、これに伴って不法入国者の増加も新たな社会問題になっていることにも鑑みると、指紋押なつ制度の必要性はなお肯認すべきものというべきである。

また、本件指紋押なつ制度は、身柄を拘束されている被疑者に強制する指紋押なつとは異なり、一指についてのみ指紋押なつを強制するもので、その方法も直接強制は許されず、刑罰をもって間接的に強制するに過ぎないから、その方法は合理的であるというべきである。

(4) なお、控訴人は、平成四年改正法により、永住者及び特別永住者について指紋押なつ制度が廃止されたが、このことは、指紋押なつ制度が、外国人特定及び同一人性の確認の手段として、必要でもなく合理的でもなかったことを証明している旨主張する。

しかしながら、一般に、法律の改正は、立法府が、時の政治的、社会的情勢及び技術的、人的、予算的手当の可否等を総合判断した上、その政治的責任においてなすものであるから、その改正によって法律制度が改変されても、それだけで直ちに旧制度がその必要性も合理性もなかったと判断されるべきものではない。しかも、平成四年改正法は、永住者及び特別永住者についてのみ指紋押なつ制度を廃止したにすぎず、一般の在留外国人に対しては、改正後も指紋押なつ制度を維持しているのであるから、尚更である。なお、特別永住者等にかかる特殊な事情については、後記(五)で言及する。

(5) よって、本件指紋押なつ制度は、みだりに指紋押なつを強制されない自由に対し、正当な行政目的のために必要且つ合理的な制限を加えたものというべきであるから、憲法一三条に違反するということはできない。

(三) 憲法一四条違反の主張について

法の下の平等を定めた憲法一四条は、特段の事情の認められない限り、外国人に対しても類推されるものと解すべきである。しかしながら、一般的に外国人は、国民と比較してわが国社会との密着性が乏しく且つ身分事項が明確でないから、その特定及び同一人性の確認のために、国民には要求しない指紋押なつを要求しても、これは一般社会観念上合理的な根拠に基づく不均等であるというべきであって、これをもって憲法一四条に違反するということはできない。

(四) 憲法三一条違反の主張について

指紋押なつ制度の目的が正当であり、その必要性と合理性を肯認できる以上、その目的達成のために指紋押なつ拒否者に対して刑罰をもって臨むことは止むを得ない。国民に対する住民基本台帳法違反や戸籍法違反の場合の制裁は過料であるが、これらの法律は外国人登録法とは立法目的を異にし、その目的を達成するための違反行為の抑止の必要性も異にするから、これをもって罪刑の均衡を失し、憲法三一条に違反するということはできない。

(五) 適用違憲の主張について

控訴人は、指紋押なつ制度が憲法一三条、一四条、三一条に違反しないとしても、控訴人は日本で生まれ育ち、所謂協定永住許可を取得し、定職を持って妻子とともに家庭生活を営んでいたもので、その身分事項は明確であるから、控訴人に対して指紋押なつを強制することは、その限りで憲法の右各条項に違反する旨主張する。

なるほど、わが国に長年定住した実績があり、今後も定住の意思があるいわゆる定住外国人は、わが国の社会の構成員として長年社会生活を積み、重ねてきていて、居住関係、身分関係とも相当程度明確であり、一般の外国人とは違った考察が必要であると考えられる。とりわけ、平和条約国籍離脱者等は、昭和二〇年九月二日以前からわが国に在留し、日本国との平和条約が発効する以前はわが国の国民であった者あるいはその子孫であって、わが国の国籍を喪失した後も引き続きわが国での生活を続け、長年在留することによって生活の基盤を築いており、わが国社会への定着性が極めて高い。そのうちの多くの者が出生の届出、婚姻の届出、納税、運転免許の取得、印鑑登録並びに年金、健康保険及び雇用保険等の被保険者たる資格の取得等をなしており、家族、親戚、友人、知人等多数の関係者がおり、戸籍がわが国に存在しないことを除けば、居住関係、身分関係は国民と遜色のない程度に明確であるということができる。

そして、前判示のように、国民の戸籍届出及び住民登録において要求されていない指紋押なつを外国人登録において要求する実質的理由が、外国人は一般的に身分関係及び居住関係が国民ほど明確でないことにあると解せられるから、定住外国人とりわけ平和条約国籍離脱者等には、外国人登録において指紋押なつまで求める実質的な理由は乏しいということができる。

もっとも、指紋押なつ制度施行時の在留外国人は大多数が平和条約国籍離脱者であり、前判示の二重登録、不正登録もまた大部分が平和条約国籍離脱者によってなされたものと推測されること、指紋押なつ制度施行時は第二次世界大戦が終了してから日が浅く、平和条約国籍離脱者のわが国における生活基盤も一般的には未だ確固としたものではなかったこと、世界情勢とりわけ朝鮮半島情勢は混沌としていて、当時の在日朝鮮人、在日韓国人らの多くは祖国が統一されれば帰国したいとの希望を有していたと考えられること等の事情に照らせば、指紋押なつ制度の施行時において、平和条約国籍離脱者に対しても指紋押なつを強制したことが憲法の前記各条項に違反するとは考えられない。しかし、その後長い年月が経過し、世界情勢の安定、わが国の社会、経済情勢の安定に伴い、平和条約国籍離脱者等はわが国において確固とした生活基盤を築き上げたこと、二世、三世あるいは四世までもがわが国で生まれ育ち、わが国での生活しか知らない世代が相当数にのぼるようになったこと、在留資格も当初の「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づく外務省関係諸命令の措置に関する法律」(昭和二七年法律第一二六号)二条六項による不安定なものから、「日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法」(昭和四〇年法律第一四六号)に基づく永住許可、出入国管理及び難民認定法二二条二項に基づく永住許可等によって、多くの者の在留資格が安定したものになったこと、不正登録もめっきり減少し、前判示のように法務省も指紋の換値分類作業を中止し、一時期は指紋原紙への押なつすら中止されたこと等の事情が積み重なる中で、定住外国人とりわけ平和条約国籍離脱者に対して指紋押なつの強制を続ける実質的な必要性は乏しくなり、本件指紋押なつ拒否当時には、指紋の照合より確実性は劣ってもより人権侵害の程度の低い代替手段をとるべく検討すべき段階に至っていたというべきであって、少なくとも控訴人ら平和条約国籍離脱者に対して指紋押なつを強制することは、人権を制限する必要性が充分でないという点で憲法一三条に、国民との間で不均等な取扱いをする合理的な根拠が乏しいという点で同法一四条に違反するのではないかと疑うに足りる状況にあったと考えられる。

なおこのように考えた場合、在留外国人の中に、平和条約国籍離脱者等とその他の一般外国人という、当時の法律では認めていない二つの階層を作ることになるが、在留外国人の人権の保障を考える場合、これを必ずしも統一的に扱わなければならないとは解しがたく、むしろその社会実態に合わせて多元的に捉える必要があると解せられるし、右のような捉え方に社会的根拠があることは、平成四年改正法によって示されたところであるというべきである。

もっとも、制定当初は憲法に適合していた法律が、その後の社会情勢の変化等により、一部の者に適用する限度で違憲が疑われる状況になったとしても、直ちに右適用が憲法違反になるものではなく、立法府がこれを是正する立法をするまでの準備、検討のための合理的期間を経過してもなお立法を怠る場合に初めて違憲と評価されるものと解すべきところ、前判示のとおり、平成四年改正法により、平和条約国籍離脱者等に対しては指紋押なつ制度が廃止され、写真、署名及び家族事項の登録によって同一人性の確認がなされることとなったが、右は合理的期間内の立法と認められるから、結局、控訴人に対する本件指紋押なつの強制が違憲であると解することはできない。

(六) B規約七条違反の主張について

控訴人らは、本件指紋押なつ制度がB規約七条の「品位を傷つける取扱い」に該当する旨主張するので、以下検討する。

(1)  B規約は一九七六年三月二三日に効力が発生し、我が国は、一九七九年六月二一日B規約を批准し(但し、二二条について解釈宣言をなした)、同年九月二一日に国内においてB規約が発効した。同規約はその内容に鑑みると、原則として自力執行的性格を有し、国内での直接適用が可能であると解せられるから、B規約に抵触する国内法はその効力を否定されることになる。

(2)  ウィーン条約(わが国においては、昭和五六年八月一日発効)は、国際慣習法規として形成され適用されてきた条約法の諸規則を法的に確認するため法典化されたものであり、条約の解釈についても一般規則及び補助的手段が三一条ないし三三条に定式化されている。右条約は一九八〇年一月二日に発効しており、遡及効を持たないためそれ以前に発効したB規約には形式的には適用がないが、同条約の内容はそれ以前からの国際慣習法を規定しているという意味において、B規約の解釈においても指針になるものと解される。

そして、同条約二七条では、条約の不履行を正当化する根拠として国内法を援用できないことが、三一条一項では、条約の一般的解釈原則につき、文脈により、かつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈すべきことが、三二条では、文言が曖昧であったり、三一条に則った解釈によると明らかに常識に反した又は不合理な結果がもたらされる場合には、解釈の補足的な手段に依拠することができることがそれぞれ規定されている。

よって、わが国の裁判所がB規約を解釈適用する場合、右解釈原則にしたがってその権利の範囲を確定することが必要である。

ところで、B規約二八条以下の規定に基づいて、高潔な人格を有し、人権の分野において能力を認められた締約国の国民一八名で構成され、締約国から提出された報告を審査すること並びに市民的及び政治的権利に関する国際規約についての選択議定書(わが国は未批准)に基づくB規約に掲げられている諸権利の侵害の犠牲者であると主張する個人からの通知を審理し、これに対する「見解」を送付することをその主な職務とする規約人権委員会が設置されている。同委員会は、B規約の個々の条文を解釈するガイドラインとなる「一般的意見」を公表しており、右「一般的意見」や「見解」がB規約の解釈の補足的手段として依拠すべきものと解される。更に、ヨーロッパ人権条約等の同種の国際条約の内容及びこれに関する判例もB規約の解釈の補足的手段としてよいものと解される。

(3) B規約七条の「品位を傷つける取扱い」の解釈に当たっては、次のことに留意すべきであると解せられる。

ア 「品位を傷つける取扱い」を受けない権利に対してはいかなる制限も許されず、公の緊急事態においても同様である(B規約四条)。

イ 拷問及びその他の残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い又は刑罰を禁止する条約(一九八七年六月二六日発効、わが国は未批准)によると、「拷問」とは、「個人に対して、その者若しくは第三者から情報若しくは自白を得、その者若しくは第三者の行った行為若しくは行ったと疑われている行為についてその者を処罰し、又は、その者若しくは第三者を脅迫し若しくは強制するために、あるいは、あらゆる種類の差別に基づくいずれかの理由により、肉体的であるか精神的であるかを問わず、激しい苦痛を故意に加える行為であって、かつ、その苦痛が、公務員その他の公的資格で行動する者によって若しくはそれらの者のそそのかしによって又はそれらの者の同意若しくは黙認の下に加えられる場合」と定義され(一条)、更に「残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰」とは拷問に至らないものとされている(一六条一項)。

ウ 規約人権委員会は、B規約七条の解釈について、一般的意見20において、次のような見解を示している。

① B規約七条の目的は、個人の尊厳と、身体的、精神的完全性の双方を保護することにある。

② B規約七条による禁止は、身体的苦痛をもたらす行為だけでなく、被害者に対し精神的苦痛をもたらす行為にも及ぶ。更にその禁止は、体罰、即ち犯罪に対する処罰としての、又は教育的、懲戒的措置としてのいきすぎた処分を含む体罰にも及ぶ。

エ 規約人権委員会は、アンティ・ヴォランヌ対フィンランド事件(一九八七年第二六五号事件)における「見解」で、B規約七条の解釈として「何が非人道的な若しくは品位を傷つける取扱いであるかは、事案の全ての事情、すなわちその継続期間、方法、被害者の性別、年令、健康状態等に基づいて判断されなければならず、『品位を傷つける刑罰』に該当するには、辱め又は卑しめの程度が一定の程度を超えていることを必要とする。」との見解を示し、アンティ・ヴォランヌが兵役に就いている間に二度にわたって許可なく部隊から離脱したことにより一〇日間の営倉拘禁に処せられたことが「品位を傷つける刑罰」には当たらないとした。

オ ヨーロッパ人権委員会は、東アフリカのアジア系住民対英国事件(一九七三年第三一申請事件)における意見で、人の地位、立場、名声又は人格をおとしめる行為で、それが一定の程度に達する時にはヨーロッパ人権条約三条の「品位を傷つける取扱い」になるとし、人権を理由として入国を拒否する英国の出入国管理法の改正は右「品位を傷つける取扱い」に該当するとした。

カ ヨーロッパ人権裁判所は、一九七八年四月二五日、タイラー対マン島事件の判決において、刑罰の種類としての体罰が、拷問や非人道的な刑罰には当たらないが、品位を傷つける刑罰に当たるとし、これが犯罪の抑止に効果があるとしても、ヨーロッパ人権条約三条に違反する刑罰は許されないとした。

(4)  用語の通常の意味にしたがうとともに、以上の諸点を総合して勘案すると、B規約七条にいう「品位を傷つける取扱い」とは、公務員の積極的ないし消極的関与の下に個人に対して肉体的又は精神的な苦痛を与える行為であって、その苦痛の程度が拷問や残虐な、非人道的な取扱いと評価される程度には至っていないが、なお一定の程度に達しているものと解せられる。そして、その「一定の程度」の解釈については、「品位を傷つける取扱いを受けない権利」に対しては、緊急事態においてすらいかなる制限も許されないことを考慮に入れる必要があり、右の「一定の程度」に達しているか否かの判断については、その取扱いを巡る諸般の事情を総合考慮して判断されるべきと解せられる。

(5)  そこで、本件指紋押なつ制度が「品位を傷つける取扱い」に該当するか否かを検討するに、指紋押なつ行為自体は肉体的に何らの苦痛を与えるものではないし、本件指紋押なつ制度はこれを拒否する者に対して刑罰によって間接的に指紋押なつを強制しているが、直接強制は認めていない。押なつ者が精神的苦痛を受けることはあり得るが、これはわが国において指紋押なつを強制されるのが、外国人登録法に基づく以外には刑事事件の被疑者だけであるという社会的事実があることから、指紋押なつを強制されることによって犯罪者と同列に扱われたとの屈辱感等を生ぜしめることに基づくものであるところ、被疑者の指紋は一〇指の回転指紋を採取するのに対し、本件指紋押なつ制度では一指の採取のみであって、その方法は明らかに異なること、わが国においては文書作成の際に署名とともに印鑑または指紋の押なつをする慣習があること及び本件指紋押なつ制度が正当な行政目的に基づくものであることを理解すれば、その精神的苦痛は相当程度減じるものと推測されること等の事情に鑑みると、本件指紋押なつ制度が押なつ者に与える精神的苦痛の程度は、右の「一定の程度」には達するものではないと判断され、本件指紋押なつ制度はB規約七条の「品位を傷つける取扱い」には該当しないものというべきである。

(6)  但し、本件指紋押なつ制度がB規約七条に適合するか否かの判断に当たっても、定住外国人とりわけ平和条約国籍離脱者等に対しては特別な考慮が必要である。即ち、(五)で判示したように、平和条約国籍離脱者等は長年わが国での生活を続け、本件指紋押なつ拒否当時までに、一世は約四〇年間にわたり、二世ないし四世はその人生の全てをわが国内で生活し、確固とした生活基盤を築き上げていたから、その居住関係及び身分関係は国民と遜色のない程度に明確になっていて、国民の戸籍届出及び住民登録において要求されない指紋押なつを、外国人登録において平和条約国籍離脱者等に対して要求する実質的必要性が乏しくなっていたものである。それ故に、平和条約国籍離脱者等が国民に求められない指紋押なつを強制されることを納得することは一般に困難であって、そのことによって平和条約国籍離脱者等が抱く屈辱感、不快感、被差別感は、一般の外国人の場合よりも強いものがあり、その程度は、右の「一定の程度」に達すると評価できるのではないかと疑う余地がある。

もっとも、(五)で判示したように、平和条約国籍離脱者等に対しても、指紋押なつ制度の発足当初はこれを強制する充分な必要性があり、その減少は、年月の経過とともに徐々に生じたものである上、指紋押なつ制度を廃止するためには、それに代わる同一人性の確認方法を開発するための技術的、予算的、人的制約、指紋押なつ制度を廃止する外国人の範囲の決定、その場合に廃止された外国人と廃止されない外国人との取扱いの相違が憲法一四条に違反しないか等の法的、政治的に困難な問題がある上、どの時点で右の「一定の程度」に達したかの判断は困難であって、本件指紋押なつ拒否当時に平和条約国籍離脱者等に強制する限りで本件指紋押なつ制度がB規約七条違反であるとまでは断定するには至らない。

(七) B規約二六条違反の主張について

(1) B規約二六条の解釈に当たっては、次のことに留意すべきであると解せられる。

ア B規約は、二条において、第二次世界大戦後の人権の国際的保障の大きな特徴である内外人平等の原則を掲げている。そして締約国に対し、すべての個人に対し、いかなる差別もなしにB規約において認められる権利を尊重することを義務づけているのみならず、これを積極的に確保することまで義務づけている。そして二六条も、すべての者が法律の前に平等であることを宣言している。

イ 規約人権委員会は、一般的意見15において、規約上の外国人の地位について次のような見解を示している。

① B規約は、締約国の領域に入り又はそこで居住する外国人の権利を認めていない。何人に自国への入国を認めるかを決定することは、原則としてその国の問題である。しかしながら、一定の状況において外国人は入国又は居住に関連する場合においてさえ規約の保護を享受することができる。例えば、無差別、非人道的な取扱いの禁止又は家族生活の尊重の考慮が生起するときがそうである。

② 入国の同意は、例えば、移動、居住及び雇用に関する条件を付して与えられる場合がある。しかし、外国人は、ひとたび締約国の領域に入ることを認められると、条約で定められた権利を享受することができる。

③ 外国人は、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い又は刑罰を受けるものではない。外国人は身体の自由及び安全についての完全な権利を有する。これらの権利の適用に際しては、外国人と市民の間に差別があってはならない。これらの外国人の権利は、合法的に課しうる制限によってのみ限定されうるに過ぎない。

ウ 規約人権委員会は、一般的意見18において、規約上の外国人の地位について次のような見解を示している。

① B規約で使われている「差別」という用語は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上の意見若しくはその他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生、その他の地位に基づくすべての意味での区別、排除、制限、特恵であって、すべての人々が対等の立場で、すべての人権と自由とを認識し、享受し、行使することを阻止し又は妨げる目的を有し、又はそのような効果を有するものを意味すると理解すべきである。

② 本規約二六条に規定されている差別禁止の原則が適用されるのは、本規約上に定められた権利に限定されない。

③ 基準が合理的であり、かつ客観的である場合であって、かつまた、本規約の下での合法的な目的を達成するという目的で行われた場合には、処遇の差異は必ずしもすべて差別を構成するわけではない。

エ 規約人権委員会は、ゲイエ対フランス事件(一九八五年第一九六号事件)における「見解」で、一九六〇年のセネガル独立前にフランス陸軍で軍務についていたセネガル国籍の退役軍人であるゲイエ外七四二人に対し、フランスが、フランス人に対する年金よりも減額した年金を支給した措置をB規約二六条違反であるとし、国籍は同条の「その他の地位」に該当するとした。フランスは、右減額の理由として、他国における同一人性や家族状況の確認が困難であること、年金制度の悪用を防ぐのが困難であること等を主張したが、B規約人権委員会は、単なる行政上の便宜は不平等取扱いを正当化することはできず、ゲイエらに対する異別の取扱いは合理的且つ客観的基準に基づくものとはいえないとした。

オ 規約人権委員会は、アウメルディ・チフラ対モーリシャス事件(一九七八年第三五号事件)における「見解」で、モーリシャスがモーリシャス人男性の外国人妻に対しては自由な入国の権利及び国外退去の免除を認めているのに、モーリシャス人女性の外国人夫に対しては内務大臣の居住許可のない限り右の権利を認めていないことをB規約二六条違反であるとした。モーリシャス政府が、外国人夫が国家に対し治安上の脅威を与えていると主張したが、右差別は保安上の理由によって正当化されえないとした。

(2)  以上を総合して勘案するに、前判示のように、本件指紋押なつ制度が品位を傷つける取扱いに当たるとは解せられないが、なおこれが国籍に基づく区別であって、外国人が国民と対等の立場で人権と自由を享受することを妨げる効果を持つものであることは明らかであるから、基準が合理的且つ客観的で、合法的な目的を達成する目的で行われたと認められない以上、本件指紋押なつ制度はB規約二六条に違反すると解せられる。

そして、(二)で判示したように、本件指紋押なつ制度は、身分関係及び居住関係を正確に把握する前提として、個々の外国人を正確に特定した上で登録し、現に在留する外国人と登録上の外国人との同一人性を確認できる態勢を整えることを目的とするものである。ところで、規約人権委員会も認めるように、国際慣習法上は、何人に入国、在留を認めるか、認める場合に如何なる条件を付するかは、その決定が不合理ないし個人の不可侵の権利を害するものである場合でない限り、基本的にその国の自由であると解せられるところ、指紋押なつ制度の右目的が合理性を持つことは明らかであるから、その目的はB規約の下においても合法的なものというべきである。

また、(二)で判示したように、一般的に外国人は、国民と比較してわが国社会との密着性が乏しく且つ身分事項が明確でないから、その特定及び同一人性の確認のために、指紋押なつを要求する合理的な理由があること、指紋押なつ制度は、昭和二〇年代に不正登録、二重登録が多発したことを契機に、これを防止するため従前の写真による同一人性の確認方法に代えて導入されたものであり、右導入後は、他の諸施策とも相まって、不正登録は大きく減少したこと、その後も指紋押なつ制度を維持することが不正登録に対する抑止的効果を有していると考えられること等の事情に鑑みれば、外国人に対し国民と異なる取扱いをする基準として、合理的且つ客観的なものというべきである。

よって、本件指紋押なつ制度自体がB規約二六条に違反すると解することはできない。

(3)  但し、本件指紋押なつ制度がB規約二六条に適合するか否かの判断に当たっても、定住外国人とりわけ平和条約国籍離脱者等に対しては特別な考慮が必要である。即ち、同一人性を確認できる態勢を整えるという指紋押なつ制度の目的自体は、平和条約国籍離脱者等に対しても正当であるというべきであるが、その手段として指紋押なつを強制することの合理性については、平和条約国籍離脱者等を一般の外国人と同列に論じられない。

蓋し、(五)で判示したように、指紋押なつ制度発足当初は、平和条約国籍離脱者等に対して指紋押なつを強制する充分な理由があったが、その後不正登録がめっきり減少した一方、平和条約国籍離脱者等はわが国での生活を続け、本件指紋押なつ拒否当時までに、一世は約四〇年間にわたり、二世ないし四世はその人生の全てをわが国内で生活し、確固とした生活基盤を築き上げてきていたから、その居住関係及び身分関係は国民と遜色のない程度に明確になっていて、国民の戸籍届出及び住民登録において要求されない指紋押なつを平和条約国籍離脱者等の外国人登録において要求する実質的理由が乏しくなっていたものである。そうすると、本件指紋押なつ制度は、平和条約国籍離脱者等に適用する限りで、国民と異なる取扱いをする基準が合理的ではないと解するべきでないかと疑う余地がある。

もっとも、右実質的理由の減少は、年月の経過とともに徐々に生じたものである上、法律の改正には(六)で判示したような様々な問題があるから、どの時点でB規約二六条に違反する状態と判断すべきかは困難な問題であって、本件指紋押なつ拒否当時に平和条約国籍離脱者等に強制する限りで本件指紋押なつ制度がB規約二六条違反であると断定するには至らない。

2  以上の認定判断を前提に、控訴人が受けた損害額について検討する。

(一) 控訴人は、被控訴人甲野の違法な本件逮捕状請求及び乙川裁判官の違法な本件逮捕状の発付の結果、逮捕されるに至り、約一一時間にわたる身柄拘束を受けた。その間、桂署及び京都地方検察庁でそれぞれ取調べを受けたのみならず、桂署で被疑者としての写真撮影、指紋採取を受け、更に留置の際に身体検査を受けた。指紋採取については、控訴人は、自らが信念に基づいて本件指紋押なつ拒否をしたのに対する報復的措置として桂署が強制しようとしていると考え、これに抵抗したが、八人の警察官に取り囲まれ、身体の各所を取り押さえられて強行された。その際、前判示のとおり右手拇指及び右手関節部を受傷した。また身体検査では、ブリーフ一枚の姿にされ、屈辱感を味わった。逮捕されたこと及び逮捕中の右処遇により控訴人が受けた精神的苦痛は大きいというべきである。

(二) そして、控訴人を逮捕する根拠となった外国人登録法の指紋押なつ義務及びその違反者に対する刑罰を定めた規定は、憲法違反ないしB規約違反とはいえないものの、控訴人を含む平和条約国籍離脱者等に適用する限りで憲法一三条、一四条、B規約七条、二六条に違反する状態だったのではないかとの疑いを否定できないものであった。

(三) 以上の諸事情及び本件に現れた一切の事情を総合勘案し、控訴人が本件逮捕によって被った精神的苦痛を慰藉するのは金三〇万円をもって相当と認める。

(四) 本件訴訟の性質、審理経過、認容額等に鑑み、被控訴人甲野及び乙川裁判官の不法行為と因果関係のある弁護士費用としては、金一〇万円を相当と認める。

(五) 以上の金四〇万円は被控訴人甲野と乙川裁判官の共同不法行為によって生じたものであるから、被控訴人国及び同京都府はそれぞれその全額についてこれを賠償する責任を負う。

四  (控訴人の被控訴人国に対する指紋原紙の引渡請求及び被控訴人京都府に対する指紋票及び一指指紋票の引渡請求について)

1  控訴人は、みだりに指紋押なつを強制されない権利は自己の情報を管理する権利の一つであり、右権利は公権力による侵害を排除する自由権としての側面に止まらず、物権的請求権と同様、これを支配する権利の側面を有しているから、右権利に基づき、被控訴人京都府が違法に採取した指紋が印象されている指紋原紙、指紋票及び一指指紋票(以下「本件指紋原紙等」という)の返還を求めることができる旨主張する。

2 本件指紋採取は、控訴人が逮捕されていることを理由として令状なくしてなされたものであり、控訴人の本件逮捕は被控訴人甲野の違法な本件逮捕状請求及び乙川裁判官の違法な逮捕状の発付に基づくもので、それ自体違法の瑕疵を帯びると解せられるから、本件指紋採取は違法な手続に基づいてなされたものということができる。そして、みだりに指紋押なつを強制されない自由は、プライバシーないし自己に関する情報をコントロールする権利の一つとして憲法一三条によって保障されており、これは人格権ないし人格的利益の一つとして、絶対的、排他的効力を有すると解せられるから、権利侵害状態の除去ないし右状態からの回復に必要且つ効果的なものであれば、差止請求その他物権的請求権と同一内容の請求が認められる余地がないではない。

しかしながら、本件引渡請求の対象物である本件指紋原紙等は、その紙上に控訴人の指紋が印象されているとはいえ、それ自体は被控訴人らがそれぞれ所有権を有する公文書であるから、それぞれの紙上の指紋が印象された部分の廃棄を求めるのであれば格別、本件指紋原紙等自体の引渡を求めるのは、右権利から導き出される権能を超えるものであり、また、それぞれの紙上の指紋が印象された部分の廃棄を求めることによって権利侵害状態の回復が図れるから、権利回復の必要性の面でもその必要を超過するものである。

そうすると、控訴人に被控訴人らに対して本件指紋原紙等の引渡を求める権利があると認めることは困難であり、控訴人の被控訴人らに対する本件指紋原紙等の引渡請求は、失当として棄却を免れない。

第三  (結論)

以上判示してきたように、控訴人の被控訴人甲野に対する本訴請求は失当であり、被控訴人国及び同京都府に対する本訴請求のうち、損害賠償請求は、金四〇万円及びこれに対する不法行為の後である昭和六一年四月一八日から支払い済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で正当であり、その余は失当であり、指紋原紙等の引渡請求は失当である。

よって、被控訴人国及び同京都府との関係でこれと異なる原判決を右のとおり変更し、被控訴人甲野との関係では、控訴人の請求を棄却した原判決は正当であるから本件控訴を棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法九五条、九六条、八九条、九二条、九三条を適用し、仮執行の宣言は相当でないから付さないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官山中紀行 裁判官武田多喜子 裁判官井戸謙一)

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